田沼意次は果たして賄賂政治家だったのか

江戸時代の数多くの政治家たちのなかで、「悪徳政治家」のイメージが強いのが、この田沼意次(たぬまおきつぐ)である。賄賂で私腹を肥やしたと伝えられているが、果たして、それだけの人間だったのか。最近、これはつくられたイメージとう要素が強い。
田沼の失脚後、寛政の改革を行ったた松平定信が「賄賂政治家」「悪徳政治家」のイメージを宣伝し、ことさら政敵をこけおろしたという。
実際田沼は有能な政治家であり、進歩的で、積極的な政策を行った人物である。確かに当時は老中や側用心に(将軍の命令を老中に伝える役目)に賄賂を贈る習慣はあった。
彼は吉宗の後を継いだ、九代将軍・家重と十代将軍・家治のもとで、出世街道を驀進した。そのために彼の屋敷には賄賂を持参する人々が列をなしたという。(私個人としては、賄賂は平等を欠くことからいい行為でないと思っていますが、無能な人間に贈り物はしないというのは人情でしょう。こんなことを発言しますとひんしゅくを買うかもしれませんが、今的にある程度の談合もやむを得ないと思っています。なにもかも、平等、清く正しく政治は動きません。ある程度ですよ!)
まず見逃されているのは、もともと一介の旗本でしかなかった田沼を抜擢し、思い切って全権を握らせた九代、十代将軍の賢さだいう。彼らは決してばか殿ではなかったのである。
田沼は吉宗政策の年貢米増収に見込みが立たなくなったと知るや、それまでの重農主義にかわって、株仲間の積極的な公認など、商業による重商主義的な政策もとった。貿易拡大策や格式にとらわれない人材登用もおこなっている。
当時幕府より薩摩、長州が経済・財政改革に成功し、国力が充実していた。コメ中心の経済から、商業や貿易を重んじ、商品経済中心に国の富を稼ぐ経済体制に早々と転換していたからである。
特に薩摩は、慶長14年(1609)琉球に侵攻して以来、琉球を経由して密貿易を行い、膨大な利益を上げていた。
幕府も薩摩のようにいち早く商業経済に転換していたなら、あんなみじめは開国を迫られなくて済んだはず、とは後の祭りである。
だが、こういう方向転換が必要だと考えていた人間が、幕府側にもいなかったわけではない。それが田沼意次である。もちろん幕末にもなれば勝海舟とか小栗上野介といった人材が現れたが、黒船が迫る前に、重商国家への転換を彼は考えていたのである。
田沼政治が開国を目指していたということは、同時代のオランダ商館長カピタンの証言でも明らかであるという。田沼は貿易を再開しようと、バタヴィア(現在インドネシアの首都ジャカルタ)に船大工を送ってくれるよう依頼していたという記述が残っている。
これはまさしく田沼の慧眼でしょう。こういう彼を二代にわたって重用した将軍家重、家治もまた凡庸な将軍でなかったと見直されている。これは税制改革でもあった。
ところが、こうした政策は保守層の大反発を食らった。実は皮肉なことに、幕府を開いた徳川家康が政治支配の根本思想として掲げた朱子学の影響が大きかったのである。
(朱子学の不都合さを説いた陽明学について、以前私は書き込みをしたことがあります)
朱子学というのは、社会秩序、すなわち主君と家臣の間。親子間を厳しく重んずる思想である。要するに「士農工商」を生んだ、絶対的思想。家康の存在を確固たるものにするには都合のよい思想であった。
商売をやる人間は身分からいえが最低で、卑しい。なぜそんな商売に幕府が関与しなければならないのか。それは世の秩序を乱す悪行ではないか、という発想によるものだった。
時期早々だったといってしまえばそれまでだが、田沼は幕末のさまを見ずして、こころざし半ばにして失脚してしまう。また運悪く、そんななか病床の家治将軍が、田沼の派遣した医師のクスリを飲んで間もなく死去した。これをいいことに反田沼派が将軍毒殺の噂を流し、彼を辞職に追い込んだのである。そして政権交代後、松平による賄賂政治家の悪評は大いに宣伝になった。