幸福になりたい─反・幸福論

「幸福になりたい」という素朴な感情が、「人はみな幸福であるべきだ」という意識になりかわっていくことは正しいことではない。
義務を果たさず、権利ばかり主張するにも等しいと思う。
「幸福」という言葉ほど、曖昧な言葉は滅多にない、と著者の佐伯氏は言う。
「みなが平等に幸福になる権利」という観念はたいへん厄介なもので、誰もが「自分は人並に幸福でなければならない」と思い込んでしまうと、幸福の基準はいつも他人になってしまう。他人と比較することになる。
それは違う。そもそも人間は平等になどいかないものである。
人によってイケメン、美人に生まれてくる者もいれば、カッコ悪くも生まれる。カッコよく生まれれば、それだけでも有利な財産である。美醜はいくら人の主観だと言ってごまかしても、生まれながらの条件の違いを無視することはできない。
現在ややこしい神がかった存在の人、三輪明宏氏は言う。
─ステータスはどうにもならないが、ボディ・イメージ(心)は努力で向上させられる。
確かに彼(彼女?)のいう通りであるかもしれない。
外見の美醜はともかく、性格もそうで、すぐ人気者になる者もいれば、口下手、引っ込み思案の者もいる。
社会に出れば、気の利いた好感のもてる者の方がトクをするのは当たり前だが、これも決して平等ではない。
それを、性格はその気にさえなればいくらでも変えられるなどというのはきれいごとで、ある程度まで「真理」であるが、それも「ある程度」どまりだという。こういうわけで、不平等はどこにもある。それは、人間のそれぞれの違いを不平等だとわれわれが感じてしまうからで、社会的に成功することが、人生の大きな基準になっているからだ、という。
しかし、誰もが社会的に成功するわけではない。こうした人間間のささいな違いにすぎないものが、不平等という観念にすり替えられてしまうところに幸、不幸の不平等が生まれてくる。
また、たまたま重病にかかって余命いくばくもないと宣告されたとする。滅多にない奇病におかされたとする。あるいは家族に重度の障害者を抱えているとする。こうなると最初から幸福など望むことはできなくなってしまう。どうして自分はこんな不幸な境遇に生まれたのか、と誰しもが思う。しかしこうした偶然な不幸はどうにもならない。引き受けざるを得ない。
にもかかわらず、「人はみな幸福になる権利をもつ」という近代社会の原則が出てくると、人生のうちの、さまざまな偶然の違いが、不平等だと意識されてしまう。神を怨み、人をねたみ、不平不満の連鎖を生む。
しかしこれでは解決策が見つからない。考えを変えるしかない。自分次第であることを認識しなければならない。
著者はここでトルストイの言葉を引き出している。トルストイは80歳を超えてから家出をした。財産を捨て、著作権を捨て、社会的地位を捨て、家族を捨て、いわば「無」へ向かって逃避していった、ロシアの文豪。
彼は言う。
─人間の生は根本的に矛盾をはらんでいる。人は幸福になろうとして生きているが、これはあくまでも私の幸福であり、人は自分の幸福を得ることに生=生命の力を感じるのである。ところが、自分の生命はやがて死によって滅び、無へ向かってゆく。つまり人が幸福を追求しているということは、生命とともに、幸福の可能性を消滅させる方(死)へと刻一刻と接近していることだ。
このジレンマから逃れるにはどうすればいいのか。
そもそも幸福を私個人のものだと考えるからダメなのだ。そこで他人の幸福を目指すことこそ己の幸福だと思えばいい。「人が幸福になってくれることが私の幸福」というわけである。
死の恐怖というのは、自分の肉体が消滅するというより、自分の幸福が消滅すると思うところから発する、とトルストイは言う。
自分が死んでも自分が幸福になってほしいと思う人が生きていれば、自分の幸福は消滅しない。他人を充分愛することができれば、死は幸福の消滅にはならない、という。
(はいはい、ごもっともでございますが、実行はむずかしい。カナル)
私にも、自分の幸福より、わが子の幸福を、と思ってはいます。母性本能というのではなく、もっとスケールの大きい発想からでした。若い頃から抱いていたものです。こうなると自分の半生記を語らなければならなくなりますで、やめます。
徳国黒金
蔵秘男宝