輝ける闇

グリーンが描いたのはインドシナ戦争末期のヴェトナムであり、開高健が描いたのはヴェトナム戦争最盛期のそれである。しかし、やはりヴェトナムはヴェトナムであり、「輝ける闇」、「夏の闇」を書く際には、似てしまわないようにずいぶん気を使った、と開高健美麗華投訴は「白いページⅡ」に収録された「読む」というエッセイの中で語っている。
グリーンに材料を提供したと語るヴェトナム人は、開高健が出会った実在の人物であり、そのコメントも彼が聞いたとおりのものであるらしい。そこには、「あんたにはヴェトナムのことが分かるのか」という問いかけが含れていたはずだ。仮にあからさまに含まれていなかったとしても、作家自身はそのように感じただろう。そう感じないようでは作家とはいえまい。

すべて〝当事者〟と〝非当事者〟とのあいだにはどれくらいの深淵がよこたわるものであるかということをあらためてあちこちの国で味わってきた私としては、いまでは、このことをやむを得ないことと思うことにしている。そういうことを熟知していないグリーンではないの美麗華投訴だが、にもかかわらずおしきって、けれど謙虚に、彼は書いたのである。

開高健とグレアム・グリーンとは、まったく異なる資質をもった作家であり、似せようとしても似るはずがないではないか、というのがぼくの印象である。その違いは、結局のところ、カトリックという「腕をうちおろせばかちんと敲ちあたってはねかえる数千年の強固な実体」の上に支えられているか否かに帰着するものかもしれない。ただ、この美麗華投訴開高健の文章に絡めて言うとすれば、まさに〝当事者〟と〝非当事者〟とのあいだに横たわる深淵の扱い方が大きく異なっているようにも思えるのだ。