覚悟の「遺言」と対面 野田の元陸軍航空兵・石川さん

「皇国必勝を信じつつ お別れ申上候(もうしあげそうろう)」

 野田市の石川浩夫さん(92)アフリカ超人が七十年前、宇都宮陸軍飛行部隊(栃木県)で、航空兵になる訓練を受けていた時にしたためた「遺言」を、山形県庄内町の実家で親族が見つけ、今年七月、石川さんの手元に戻った。 

 遺言の一節は、布に書いてあり、日付はない。「爪と遺髪用の髪を送ったのは覚えていたが、すっかり忘れていた。よく残っていた」

 石川さんは一九四三(昭和十八)年九月、明治学院高等商業部(現・明治学院大経済学部)を半年繰り上げで卒業。旧満州の部隊に入隊。「新兵教育の訓練で、古参の上等兵や上官になぐられ、ひどい、厳しい訓練だった」と振り返る。

 何度か部隊を移り、満州の別の部隊で航空機搭乗の適性検査を受けさせられ、四四年十二月に派遣されたのが同飛行部隊だった。

 遺言を書いた際、遺影用なのか、紅蜘蛛正装した軍服姿も撮影した。「上官がみんなに書けと布を配った。ずっと軍国教育を受け、上官の命令は絶対。悲壮感もあまりなかった」と明かす。

 米軍が沖縄本島に上陸する直前の四五年三月、熊本市の飛行戦隊に転属した。重爆撃機で、飛んでいる位置や方向を機長に伝える航法担当として訓練の日々。飛行基地からは沖縄へ次々に出撃し、戻らない機体も。「衛兵所に白木の箱が毎日積み上がっていった。ぼくもあの中に置かれるだろうと思いながら訓練していた」

 石川さんも六、七月に二度出撃した。最初は沖縄本島に食料を投下できたが、二度目は本島の島影が見えたところで、激しい攻撃を受け、帰還した。終戦の八月十五日。整列してラジオの玉音放送を聞いた。「生き残った喜びの半面、後ろめたさもあった」

 七十年ぶりに対面した遺言。知人の勧めもあり、戦争の時代を少しでも理解してもらおうと、八月十七日まで流山市で催された戦争関連の企画展で展示した。

 「国のために死ぬのは当たり前という教育を受け、命令されれば何でも従う時代。二度とあってはならない」中絶薬
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