大人の理屈と子供の感覚

大人の感覚でいけば、「あとで専門のスタッフがしっかり清掃しました」で済む話かもしれないが、

 「 子供には通じない 」  

 子供は素直に、『あんなことしていいんだ』と受け取る。

 その結果、現代の子供は、いじめの一環としてではなく、単純に「遊び」として、これを友人に行う。
 まじでやってしまう。

 TV番組だから許されるかもしれないが、現実にやれば子供のいたずらでは済まない。
 深刻な事態になる。

 そもそも、こういう破壊行為を 面白い と感じるのは、子供の幼稚な思考であり、大人の笑いではない。
 子供の行為を大人の体力と実現力で行うと、本当にしゃれにならない。
 もし仮に、石橋や木梨の家を、素人が破壊したら、彼らは絶対に笑わないだろう。

 でも、この番組を見た子供の中に、かならず同じことをやってみる子は出てくる。
 子供は大人の真似をするものだから。

 とんねるずは、昔から 幼児レベルの芸もどきで受けてきた。
 しかし、それは大人の笑いではない。
 子供が「うんこ!」といって笑う次元だ。

 それを許容してしまう視聴者も悪いけど、幼稚芸を認めてしまう、お笑い業界も、どうしようもない。
夜夜堅
三便宝

兄弟

宮本研「明治の柩」や三好十郎「廃墟」が、多方面から称賛された劇団東演 。たびたび劇評を目にし、その存在に注目していた。ようやく機会に恵まれて、名作「兄弟」の再演を観た。

文化大革命を経て、経済開放によって飛躍的な成長を遂げた中国社会について、「活きる」「血を売る男」の人気作家・余華が、鋭い眼差しを向ける。
夜夜堅
一方的な批判ではなく、高い批評性を感じる。時代の風を巧みに捉えた筆致が光る。明暗大きく別れた義兄弟の人生を通じて、変わりゆくものと変わらないものを強烈に印象づける。

中国の一時代を描いた作品の割には、さほど「中国中国」しない。時と場所に普遍性があり、バブル前後の日本と言われても違和感はない。

一方で、いかにも中国らしいなと思わせるのは、人々が放つ強烈なエネルギーだ。生や金に対する執着心。役者の身体を通して、ギラギラ感が伝わってくる。東演が評価される由縁だろう。

互いに連れ子の義兄弟は、奇縁に絡みながら生きる。貧しい中にも細やかな幸せが感じられた時代から、強き者が生き残る格差社会へ。いつしか二人は道を違え、兄が社会の底辺、弟が最上部に位置する。
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とはいえ、それがそのまま人生における優劣に繋がるかと言えば、そうとは限らない。「金が価値観の全てではない」。愛する女性と質素に暮らす幸せそうな兄の姿によって、余華は静かに訴えかける。

だが、時代の波は、そうしたノスタルジックな価値観すら荒々しく押し流してしまう。

潮流に乗って社長に成り上がった弟。貧しい兄は病を患いながら懸命に働き、ついにダウン。弟が手を差し伸べるも、兄は負い目に感じて行方をくらます。かつて弟の恋人だった兄の妻は、弟の元へ走る。

生々しい性描写が、これでもかというほど繰り広げられる。厳しいけど、これが中国社会の現実。余華は
、表現に対する信念を曲げない。容赦ない。表現の自由に厳しい中国で、作家として生き抜いてきた気概を強く感じる。

演じる側としても生易しい作品ではない。先ほど書いたように、ほとばしる熱情が演技に求められる。三角関係の男女を演じた南保大樹、能登剛、古田美奈子は、悲喜こもごもな人間の生きざまを鮮やかに見せつけてくれた。

旧日本軍は、旧日本軍だけか?

当たり前のことだろうと仰る皆様もいらっしゃることだろう。だが、韓国現大統領の父が旧日本軍将校であったことを思い出してほしい。70年前に消滅が決まった旧日本軍には、外地軍、つまり台湾を本拠地とする台湾軍、朝鮮半島を本拠地とする朝鮮軍をも含んでいた。

皇民教育が進んでいたとはいえ、どちらも「共通語」としての日本語教育はあったものの、台湾語や朝鮮語を根絶しようなどということは行われていないことは、現在も尚台湾語や朝鮮語が健在なことを見れば明白だ。
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つまり、例えば東京で召集されたものが、半島の片田舎に行ったところで、話が通じるわけはない。
では、強制徴用があったとすれば誰がやったのか。言うまでもなく、旧日本軍の一部を構成していた朝鮮軍以外には考えられない。

朝鮮軍兵員は、言うまでもなく朝鮮半島出身者がほぼすべてを占めていた(将官については、人事交流などで異なっているにしても、最前線の兵員や下士官相当は、間違いなく現地応集者だ)。
すなわち、現在の韓国軍や北朝鮮軍の前身であった組織のしでかしたこと。

軍司令部などが、どこまで詳細な報告を受け、或いは指示を出していたかとは別問題。
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これを裏付けるようなエピソードがある。
残念ながら創作の域を出ないが、今ほど杜撰な考証をしているとは思えない。
それは、「私は貝になりたい」というドラマ・映画。
主人公清水豊松は、戦犯として逮捕され、絞首刑となる。
その罪科は、神奈川県内に墜落した米攻撃機搭乗員捕虜に対する虐待に対する罪。
つまり「C級」だ。
だが、この判決は、些か不条理を持っている。
すなわち、意識不明、おそらくは殆ど死んでいる捕虜を柱に縛り付け、これを竹槍で突いて右腕を損傷させたのだが、この命令が問題。
連隊長は、「適当に処置せよ」と口頭で命令を下す。
これが大隊長、中隊長、小隊長と降りてくる間に処置せよが処分せよに、そして処刑せよに変貌する。
日頃の行いに目をつけられていた清水豊松らが執行人となることを命じられ、即座に応じなかったために罰を喰らい、やり方が手ぬるいと、爾後にも罰を喰らったとしている。

同じように、朝鮮軍司令部や、連隊本部などが、「適当に処置せよ」という一般命令を下したものを、担当部隊が強要したとしたら、この責任は、管理責任としては曖昧な命令を下した司令部や本部にあるとしても、これを強制してでも集めるべしと理解した現地部隊指揮官の責任が大だろう。

この「証拠」なるものも、開示されている範囲では、一般命令、否、訓令の域を出まい。つまり、旧朝鮮軍がやっていたように、旧日本軍を構成する朝鮮軍が行動したとしても、おかしくはなかろう。一口に「旧日本軍」と言っても、現在の日本の領域を本拠地とする物の他に、朝鮮軍、台湾軍、そして関東軍があったことを忘れてはなるまい。証拠だというならば、どの部隊が担当であったかまでを詳らかにしなければならないだろう。
  • 日記 |
  • 2016-05-04 12:51:29