<シベリア抑留>遺骨収集14年、92歳「命の続く限り」

第二次世界大戦の終結後、約60万人が旧ソ連の強制収容所に送られたシベリア抑留の引き揚げが終わってから今年で60年。約3年間抑留された荒木正則さん(92)=大阪府河内長野市=は毎年、遺骨収集のためロシアやカザフスタンなどを訪れている。抑留では約6万人が亡くなったとされるが、収集された遺骨は半数に満たない。遺骨収集団に加わり7月にロシアを訪れた荒木さんは「命の続く限り、戦友の遺骨を抱いて帰る」と決意している。
催淫カプセル
 荒木さんは熊本県出身。1944年に陸軍に入隊し、終戦直前に幹部候補生として旧満州の予備士官学校で訓練中にソ連軍の侵攻を受け、ロシア・ハバロフスク地方に抑留された。

 外気温は氷点下63度まで下がり、食事は一切れの黒パンと湯のような具のないスープだけ。第2シベリア鉄道の建設のため、朝8時から森林の伐採作業に動員された。喉を潤そうと小屋の外に雪を取りに行った戦友は撃ち殺された。荒木さんが最初に覚えたロシア語は「ウボールヌイ(便所)」。逃亡と思われて見張りの兵士に銃殺されないためだった。

 10カ所以上の収容所を転々とした後、48年10月に帰還。曲美 製鉄会社に定年まで勤め、93年からシベリア抑留の慰霊の旅に出始めた。

 遺骨収集を始めたきっかけは2002年。慰霊のため訪れたハバロフスク地方の原野で1500体が埋まる遺骨収集現場に立ち会い、泥の中から頭蓋骨(ずがいこつ)が取り出される様子を見た。ともに苦労し、帰りたいと願いつつ死んでいった仲間たち。「俺もやらなければ」。翌年から厚生労働省派遣の遺骨収集団に参加した。

 ロシア側の資料を頼りに、墓標もない湿地を数十センチ掘ると、遺骨が出てくる。切断された頭蓋骨や、足をゴムで束ねられた遺骨に言葉を失った。同じ場所から数体分が折り重なるように出てくることもあった。

 時には膝まで泥につかりながら、熊手やスコップで地面を掘る作業は高齢の体に負担がかかるが、「歩けないのか、ならば俺が連れて帰る」という一心で続けてきた。今年7月は15日間の日程でハバロフスク地方のコムソモリスク・ナ・アムーレを訪れた。

 荒木さんは舞鶴港に引き揚げた当時に着ていた上着を、今も大切に保管している。ダモイ(帰還)の中継地で支給されたものだ。ソ連からは何も持ち帰ることを許されず、上着がただ一つの思い出の品なのだ。「新品かと思ったら継ぎ当てしてあった。綿だけどぬくいんですよ。収容所ではみんなこの上着で作業しました」
巨人倍増
 抑留経験を語れる人は減り、学校でもシベリア抑留について詳しく教えられていないと感じている。「20世紀の一大悲劇がこのままでは消え去ってしまう」という焦燥感にも駆られる。「土に返る寸前のものもあり、一人でも多くの遺骨を故国に持ち帰りたい。自分たちのような当事者が語り続けることで、体験を次世代に引き継ぐことができれば」
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