チヤホヤさらなのか

切っても切れない親戚の冠婚葬祭がらみは、まあ、よしとしよう。
自分の実家サイドなら、喜んで、お付き合いしている場合もある。
が、自由に選択できる友人関係において、
友人たちのお子さんが結婚したり、お孫さ韓星潮流化妝髮型課程んが生まれたり、親御さんが亡くなったり(しかも義理の)
皆、同じようなコースを辿っているのに、いちいちお祝いしたり、されたり、内祝いしたり、
喜びを分け合い、悲しみを半減させ、といっても、気持ちをお金やモノで表すのは、いかがなるものか。
なので、付き合わないほうが、諸々の事情を知らないで、ずっと気楽。
(ひょっとして、「形式的なことは、もうやめましょう」、と、新たなルールが作られたのかも知れないが)

そんな付き合いをしない友人付き合いもある。
背景や家族はまるで関係ない、個人同士のお付き合い。
たまたま、わたしの学生時代の隣グループの友人たちは、めんどうな付き合いをしていた。
それもあって、わたしは、脱落し牛奶敏感 たように思う。


リアルはリアルで、いろいろあり、
ネットは、ネットで、いろいろあるようだけれど。

そさまで、崇高なおハナシを拝読させていただいた後、あらら??わたしは?????
わが身を振り返り、がくっとなる。

魂が、あきらかに澄んでいない。
おそらく、神経が図太く、無神経で、厚顔無恥なせいだろう。
そして、たいした人生経験をしていないので、壮絶な経験から培われた高質ダイアモンドを人に語れない。
(ダイアモンドなんぞはなく、せいぜい、出来損ないの炭ぐらいか)

さほど苦しい、悲しい思いをしていないので、人の苦しみ、悲しみが、我がごとのようにわからない。
しかし、想像することはできる。
これをノーテンキというのだろうか。
ただ、ひとさまに迷惑かけたり、悲しい思いをさせたりすることは、極力避けたいと願うだけ、
わたしのノーテンキぶりが伝わって、不快な思排毒いをされないよう注意する、
という、消極的なスタンスになる。

つまり、ひっそり息を殺して、あたりが明るくなるのを待つだけ。
明るいところでは、ビーチバレーをしても、よほど常識を逸する方法でもないかぎり、
そう、神経は逆撫でしないことだろう。


???ちなみに、ハナシは、まったくころっと変わって???

わたしは社交ダンスを始めて、6年。
つまり、ひよっこである。
ぴーぴー、ぴよぴよ、いっている。

始めて(たった)2年の人もいて、
(飛び抜けて若いので、まわりからこともあるからなのか、どうだか知らないが)、
その人は、けっこう大きな口をきいている。
「○○さんとは、友だちなんです」とか、平気で競技ダンス?プロの名前をあれこれ出す。
その人のいう、「友だち」っていうのは、会って挨拶したり、ちょこっと近況を一方的に話すことなのだろうか?
ひょっとして、わたしも、その人の「友だち」ということになっているのかも知れない。
わたしの感覚からすると、???ありえない???。

かけることを怠

だらだらであっても、なにかの時間待ちである場合もある。
結果待ちであるとか、熟成期間中であるとか、答えを探しているとか。
ただし、一生、そういって、だらだらしっぱなしの場合もある。
時間が迫ってはじめて、残された時間が少な品牌維護管理いことに気がつく。
だらだらの、しっぺ返し。
けっこう、きつい。

・・・・・

家にいても、課題をこなすと、記憶に残る。
課題なく、だらだら過ごすと、(労働の再生産の場合の、だらだらなら、意味があるが)、
労働をたいしてしていないのに、さ瑪姬美容 去印らに、だらだらすると、「労働」と、「だらだら」の区別、メリハリがつきにくい。

達成感というものは、努力して手に入れるものである。
たいして、なにもせずに、やりがいを手にすることはありえない。
目標を持たなければ、ただの時白髮變黑間つぶしになる。
それが気持ちいいというライフスタイルの人は、それでいい。
ひとそれぞれだから。

小学校の担任の先生が、「人生は死ぬまでの暇つぶし」と、よく口にしていた。
あまり、まともに受けとる必要はない、と、今は思っている。
先生は、どういう意味で言っているのかは、知らないが、
わたしは、逆説的にとらえている。
死ぬまでの暇つぶしではない、暇つぶしになってはいけない、という意味なのではないかと。

どんな意味であろうが、自分が感じて、考えた、とらえ方をして、
自分の生き方に取り入れたらいいのだ。

ネタもないのに、ネタ探し。
よそ様のブログを拝見すると、アタマの中身が濃く、ぎしっと詰まっておられる方は、
書いても書いても、薄くもならず、あふれ出んばかりの知識と知性、
それはそれは、濃度の濃い頭脳だと、感心させられる。

一方で、ネタを探すでもなんでもない、たんに日常あったルーチンワークを書いているだけなのに、
目が、まんまるになる膨大な閲覧数をカウントするブログもある。
(じつは、わたしは、隠れファンで、カウントを押し上げているうちの、ひとり)

ここで、わたしの分析。

頭脳派ブログが好きなのは、リタイアされているインテリ男性(&女性)が多いのでは。
政治経済、歴史、文化、などなど社会的話題、知的な話題をできるだけ取り入れ、
まだまだ磨きをらず、ボケないよう、社会とつながりを持つよう、努力しておられる。
これは、わたしは、大賛成、大賛同、大推薦。
ただし、自分は・・・眠くなる傾向あり。

さて、つぎに、
リタイア組みとは違って、現在、現役の皆さま。
おそらく、毎日、アカの他人の無名人ブログなど、読む暇はないと思われる。
なので、彼らは、実益のあるものを(お金を払ってまでも)購読する。
せいぜい、ブログはリアル友人のブログか、facebookをちょいのぞき程度。

り集まっている

もっと若い、ひいばちゃんも、いる。
ひいばあちゃんが、あの世に行きかけるころ、ひ孫はもう高校生以上、もしくは成人になっている。
子供と孫が、ひいばあちゃんの最後あた網路聲譽管理りの「人生レース」にお付き合いすることになる。
子供は、老年、孫は中年、ひ孫は青年。
5世代にわたることもある。

新しい命の輝きがあってこそ、老人は安らかな生活を送ることができる。
自然に枯れて、自然に土に還ることができる。
何事にも執着し、邁進することはよ網絡聲譽管理いことであるが、限度を逸して、闇雲にしがみつくのは老醜だと感じる。

生きることに対しても、とは言わない。
生きる気力をなくすと、なんにもならない。
「生きること」にしがみつくのと、「生きる気力がある」のとは、違うと思う。
単なる言葉遊びで、表現方法だけが微妙零類接觸行銷に違うだけだと、感じるかも知れないが、
???
???どう説明していいか、よく、わからないのだが。

???

多世代家族をつなぐ求心力が何か、である。
若い世代は、自分たちのことで精一杯。
年寄り世代に首を突っ込みたくないだろう。
中心となる人物がいる、生きている、ということ。
では、その人が亡くなると?
また、新たな求心力となる人物が受け継ぎ現れることだろう。
現れない場合もある。
それは、それで、おしまい、ストップ。
強制力を持たない制度は、もろい。
続けるには、かなりの信念とエネルギーが必要である。

家父長制度のように、意識、概念、制度が社会全体で無理やりなら、
不満や悲劇も多いが、それなりに続いていく。
それがなくなった今、それに変わるものは、あるのか?
おそらくないのでは?

地方の家は、跡継ぎがなくなっていることだろう。
(根無し草の人々が寄都会は、もともと価値観が違うので、ここでは言及しない)
しかし、頑張っている人々もいる。

???

価値観は、ひとそれぞれ、家族の中でも一致しないことが多い。
こころの中身をどう表現し、実行するか、それも、ひとそれぞれである。
家族の中で、メンバーそれぞれが、バラバラというのはいいと思わないが、
各、各々の家族には、各々の家族としての考えがあるだろう。
各家族の考え、思惑、ポリシーに従って、行動するのがよろしいかと思う。
ポリシーが無いというポリシーも、よろしいかと思う。
毎日が楽しければそれでよし、何事もなければよし、というのも、ある意味、正解のひとつである。
何が正しいとか、間違っているとかはない。