中国の戦勝70年記念式典 参加は49カ国・機関

中国政府は二十五日、九月三日に北京で行う「抗日戦争勝利七十年」の記念行事にロシアのプーチン大統領や韓国の朴槿恵(パククネ)大統領ら三十カ国の政府首脳級が出席すると発表した。ほかに十九カ国・機関が代表を派遣し、計四十九カ国・機関が参加する。
粉劑媚薬
 ミャンマーのテイン・セイン大統領やパキスタンのフセイン大統領ら中国との関係が深い国の出席が目立つ。北朝鮮は金正恩(キムジョンウン)第一書記は出席しないが、最側近の崔竜海(チェリョンヘ)朝鮮労働党書記を派遣。国連の潘基文(バンキムン)事務総長や村山富市元首相、英国のブレア元首相らも出席する。

 安倍晋三首相は、記念行事に合わせた九月上旬の訪中を見送る方針を明らかにし、日本政府から出席者はいない。中国外務省の張明次官は、安倍首相の訪中見送りについて「国会のために出席できないことを注視している」と理解を示した上で、「記念行事は特定の国家、今の日本、日本人に対するものではなく、現在の中日関係と直接の関係はない」と強調した。
ru486
 三日は午前中に天安門広場で記念大会と軍事パレードを行い、昼には人民大会堂で歓迎のレセプション、夜には「抗戦」の歴史を再現するパーティーが開かれる。軍事パレードにはロシアやカザフスタンなど十七カ国の軍隊か軍代表が参加する。

「改修で十分使用可能」 伊賀市現庁舎で第三者委報告

伊賀市は十八日、現市庁舎の耐震改修について検証する第三者委員会の報告書を市議会全員協議会(全協)に示した。市の担当者は「提案された改修工法は同規模の建物を新築するより、確実に安価になる」と報告内容を説明した。
ハーバルビビッド

壮天根
 第三者委は三重大の畑中重光教授を委員長に学識者三人で構成する。事務局は県建設技術センター(津市)。

 報告書によると、コンクリートの強度は劣化は少なく当初の設計強度が保たれていた。しかし、鉄筋を覆うコンクリートの「かぶり厚さ」は九カ所中七カ所で現在の建築基準法を満たしていなかった。中二階は、これまでに耐震基準に満たないことが判明している。

 このため第三者委は耐久性については二パターン、耐震設計については三パターンの工法を提案した。市管財課によると、第三者委からは「改修すれば十分使用できる」と説明を受けたという。

 市は現庁舎を保存し、図書館などが入る複合施設として活用する方針を打ち出している。一方、市議会では耐震性などを疑問視する声があった。

 岡本栄市長は取材に「再利用に向けて致命的な欠陥はなかった。今後は建物をどう生かすかを調査するなど、次のステップに進みたい」と話した。

 現市庁舎は、建築家坂倉準三が設計し、一九六四年に完成した。鉄筋コンクリート造二階建て。雨漏りするなど、老朽化が進んでいる。

 第三者委は六月、コンクリートの強度を調べるために庁舎の建物の一部をくりぬいて試料を採取。土を掘って地中はりを露出させ、劣化状況を確認するなどの調査をした。

 この日の全協では、市の報告に対し、議員からの質疑はなかった。

戦禍越え追った白球 静高OBがエール

◆「全力疾走を」 後輩の活躍に期待

 六日開幕した全国高校野球・夏の甲子園大会で、静岡県代表の静岡高は七日、東海大甲府(山梨)との初戦に臨む。大会は一九一五(大正四)年に第一回全国中学校優勝野球大会として始まり、戦後七十年のこの夏、百年目を迎えた。「野球は平和の象徴。プレーできる楽しさを甲子園で表現してほしい」。戦中戦後の激動の時代に白球を追った静岡高OBは、後輩の活躍に期待している。
女性用媚薬 ランキング

催情剤
 すり鉢状の観客席。グラウンドの軟らかい土。「今とほとんど変わらない素晴らしい球場だった。戦時中を考えると夢みたいな気持ちだった」。四八年夏の甲子園に静岡第一高(現静岡高)の二塁手として出場した野村賢治さん(84)=静岡市駿河区=は振り返る。

 日米開戦後、米国から伝わった野球は敵視された。全国大会は開かれず、旧制静岡中(現静岡高)の野球部も四二年に廃部となった。静岡市の県営草薙球場は外野のグラウンドが耕され、食糧難でサツマイモが植えられていた。

 二六年夏の甲子園で全国優勝した名門野球部に憧れて入学した野村さんだったが、近所の空き地でのキャッチボールや草野球で気持ちをまぎらわせた。「残念だったが、戦時中だから仕方ないという気持ちが強かった」と話す。

 戦争に敗れ、全国大会の再開が決まった四六年に野球部も復活。旧制中三年だった野村さんは真っ先に入部し、三十人ほどの仲間と練習に励んだ。

 空襲で校舎は焼失し、グラウンドは企業から借りた運動場。ぼろぼろになったボールは自宅に持ち帰って縫った。米に麦や大根を混ぜ、空腹を満たす部員も多かった。

 「今の球児と比べれば考えられない環境だったけど、夢中で苦を感じなかった」と野村さん。復活から三年目、俊足巧打の一番打者として同高校戦後初の甲子園出場も果たした。白いシャツの観客が多く、打球が重なっても見失わないよう目をこらして守備をした記憶は今も鮮明だ。

 連続出場した四九年は右翼手に回り、二塁は一年だった宗野徳太郎さん(82)=静岡市清水区=が守った。甲子園では、夫や子を戦争で亡くし、部屋が余っている民家に宿泊した。遺族から戦死した家族の話を聞き、宗野さんは「まだ復興途上だった。生きているありがたさ、野球ができる幸せを感じた」と話す。
粉劑媚薬

ru486
 二人の時代は静岡、山梨両県で代表一校を決める地区予選「山静(さんせい)大会」で甲子園出場を争った。百年目の甲子園の初戦で山梨代表と当たるのを前に、野村さんは「平和に感謝し、全力疾走で宿敵からまず一勝を」と期待。野球部コーチやOB会長を務めた宗野さんは「記念の年に出られた感謝を胸に、約九十年ぶりの優勝を実現してほしい」と力を込めた。