世紀の対談

稲葉浩志、福山雅治と初共演となる対談公開中
対談動画のリンクはこっちですね。

稲葉福山のご両人といえば、現代日本の最高の男2TOPだと
誰もが認める存在ですよね。

一般人ならとっくにおじさんと言われる歳ですが、
若者からも憧れられる存在なのは過去を遡っても稀有な例ですよね。

僕もおっさんに片足、いや両足突っ込んでますが
このお二人みたいになれたらいいなと日々努力してます。

この対談が実現した要因は稲葉さんがソロの宣伝にやる気を出しているからだと思われます。
LIVEを全国配信したり、経済番組でも紹介されりしてそっちの分野の話題性も大きいみたいです。

んで対談の内容ですがちょうど今聴きながら
日記を書いてるんです。

タイトルどおりずっと格闘技の話で、女性からすればポカーン・・・となる
内容かしれないです。

男は闘争本能があるから、格闘技とかスポーツが大好きなんですよね。
女の人はそういうの理解できないですけど、男同士じゃそういう話よくするんです。

稲葉さん福山さんほどの男でも普通の男と同じで格闘技フリークなのは
親近感が沸きます。

福山さんは以前からよくラジオで格闘技の話をしてたので
格闘技すきよく知られていると思うのですが、稲葉さんは公で格闘技の話を
長々するのは珍しいというか、そもそも格闘技に限らずあまり多くを語りたがらない人なので
そういう意味でも貴重な対談かと思います。

鴻雁来?

6月に亀末廣で買った葛焼があまりにも美味しかったのでスーパーで本葛粉を見かけたとき何となく買っちゃった。溶かして焼くだけなら家でできるかも?

とはいえ、お菓子作りなんて手がかかるからそのままになっていたけど、もはや秋。そこに「淡交」別冊の茶席菓子の小冊子9月号で「初雁」の名が目に入る。夏のお菓子っぽい葛焼(冬にも使われることはあるそうだけど)に黒い色を採り入れて秋の到来を表現するお菓子である。(と私は理解しておりました。が「初雁」といっても月にゴマ振った意匠とかいろいろあるようです。その冊子で扱っていたのも上用饅頭みたいでした。実は最新号はまだ買ってないので手元にない。)

やるなら最後のチャンスだ、と思ってとうとう、というかようやく白砂糖を買った。1キロと500グラムで20~30円くらいしか違わないんだけど残っても困るから500グラムを。6月号に葛焼の作り方は載っていたんだけれど、だから白砂糖を買ったんだけれども、改めて調べてみたら「初雁」は黒砂糖と葛粉を混ぜた生地に雁の翼に見立てた百合根の蜜煮を入れてかためる由。
調べてから買わなきゃだめじゃーん!顔葛焼の基本にちょっと黒糖混ぜるのかと思ってた。

というわけでまたもや実行延期。   百合根の蜜煮って…。

丞さまの噺は艶があってオツなものですな

最近小澤征爾関連のホンをよく読んでいる。
初期の「ボクの音楽武者修行」から村上春樹との著書までである。
ほぼマエストロの立身出世伝と音楽に対する哲学、またそれを支えるたゆまぬ努力がつづられている。
大病をされてから手術後の指揮はやや精彩をかきがちであったり、オペラに関してはやや"ぎこちなさ"も感じるが手術前までのオケコンではその指揮ぶりは真摯で丁寧でありそして人を強く引きつける魅力はあった。
そのウラにあるものを読み解くことができる。
今の後進の指揮者に内外問わずしてそこまでの努力、哲学を持っている指揮者がいるのだろうか?
逆に言うとマエストロ小澤はそこまでの指揮者を育てたのだろうかとも思うが、奇しくも彼の師匠のひとりであるシャルル・ミュンシュの言う通り「指揮は教えれるものではない」ということを証明してもいるのか。
マエストロの指揮は来年の松本でのオペラ「ベアトリスとベネディクト」に期待したいところである。

さて連休はあまり予定もいれずブラブラと過ごす。
日曜だけ落語会があったため都電で町屋に出向いたが、それ以外なにもすることもないので5時間前に町屋まで行ったが、なにもすることないので本屋に長時間腰を据えてしまったわ。

第七回古今亭菊之丞独演会「ザ・菊之丞」@ ムーブ町屋

きょん師匠が言うところの「丞さま」の独演会。
いま古今亭、金原亭の一門のなかでは客が呼べるのは
丞さまと文菊、あとは(五街道)雲助師匠の一門(白酒、馬石、龍玉)かな?

ゲストはこれまた飛ぶ鳥を落とす勢いの春風亭一之輔。
めずらしくも上方落語や講談でつかう見台と膝隠しが用意されたので???と思ってたら
数日前にジム(しかも家族割)でがんばりすぎて、左ひざの半月板がまくれてしまって正座ができないんだそうな。
整形外科の先生に「正座が必要な職業なんです」と言ったら「お坊さんですか?」と言われたそうなウッシッシ
そんなわけであぐらをかきながらの高座は「普段の袴」
相変わらずのややぶっきらぼうな一之輔節で笑えるのだが、
もっとも袴にキセルの火種が落ちてのくだりは肝心の足元が見台で隠されているのでちょっと・・・

で、丞さまは「寝床」と「淀五郎」
片方は下手なれど義太夫、もう片方は歌舞伎の噺でどちらもその芸に艶みたいなものを感じますな(文菊にもその傾向あり古今亭っぽい)
「淀五郎」は歌舞伎役者の芸の精進の厳しさが伝わってきます。
いまの成田屋や高麗屋にもこの噺、聴かせたいものですわ。
それにつけても落語には歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」に関わる噺は多いですね。
「四段目」「七段目」のような滑稽もの、この「淀五郎」や「中村仲蔵」のように芸談のようなものといろいろあり楽しいもので、「忠臣蔵」行きたい気持ちになってきます。
もっとも今年の歌舞伎座は忠臣蔵かからないのよねウッシッシ

丞さまのあの軽やかさ、なかなかいいですね。
ちょっとつづけてみてもいいかもしれない。

実家&ハロワ説明会&光トポグラフィー検査日程

今日は盛りだくさんです。長文注意。

まず朝の10時に実家へ行って、母親としばし談笑。
こないだ産まれた従兄弟の子供について、出産祝いを何とかしたいんだけど、と相談。
最初は商品券にしようかな、と思ってたんだけど、母親曰く「それならおもちゃとかの方が安く上がるし喜ばれるわよ」ということだったので、ハロワの後、丸井で見ることにした。

そのあと一時間くらい、実家のマイパソコンの設定。
とは言っても、Beckyの他に、彼のパソコンで使ってる無料のメーラー「サンダーバード」をインストールして、あらかじめコピーしてきた設定ファイルを入れ替えただけ。
これだけですべての機能、フォルダ分けまで完璧に再現できた。楽でいいわー。

久しぶりに実家でお昼食べて、大きい梨を四つ持たされた状態で、14時から丸井12階のデカいホールでハロワの説明会。
一時間四十分。疲れたー。私はまだ意見書と前の会社の離職票を出してないから、受給者証は仮のままだった。まあ認定日までにあればいいんだけどね。
久しぶりに失業手当の説明会に出たけど(7年ぶりくらい)、今やってる在宅の仕事を、内職として収入がない月でも申請しないといけないみたい。めんどくさいけどしょうがないな。不正受給で3倍返しだけは避けたいし。

彼が来てたから、合流して丸井でベビー用のおもちゃを物色。
いろいろあったけど、結果的にしゃぶっても大丈夫な素材でできたガラガラと、リラックマとコトリのぬいぐるみにした。確かに商品券より安く済んで助かった。あとは手紙書いて送るだけ。
考えてみれば、出産祝いなんてもう何年も贈る機会がなかったわ。
いや周りに出産した人はいたけど、贈りそびれて今に至ってしまった。よくないなー。

そのあと久しぶりのサンマルクでお茶しつつ、見たことあるような電話番号から電話が来てたから、伝言を聞いたら月曜日に書類を送ったばかりの光トポグラフィーの検査の病院からだったから、あわててかけなおした。

入院検査の日程を調整したい、っていうから、どれくらい先なのかと思ったら、一番早くて9月30日です、って言われてびっくりした。やっぱりブームは去ったのね、と思いつつ、早い方がいいからじゃあその日で、とあっさり決定。
9月30日の朝9時~10時までに病院で受付をして、最初に診察してからそのままお昼には入院、検査。光トポグラフィーと同時で検査するのは睡眠時無呼吸症候群の検査。たぶん一泊二日のうちの夜に何かしらやるんだろう。
彼曰く、私は睡眠時無呼吸症候群らしい。いびきが酷いのと、突然呼吸が止まるらしい。いやー、認めたくないけど、今度の検査でわかること。
10月1日のお昼ごろに医者から結果の説明があって、それとは別に紹介状を書いた主治医のもとに検査結果が送られる。15時には退院できるとのこと。

部屋は全部個室で、簡単なシャワーとトイレとテレビがついてるらしく、剃刀とガラス製品の持ち込みはダメ、ケータイはいいけど通話は部屋ではダメ、何より病院が禁煙。煙草も持ち込み不可。いやー、それ一番きつい。丸一日半くらい吸えないってことだもん。しぬー。

初診料から検査代から個室代から全部まるっと、5万5千円也。高い。高すぎる。
それだけの検査代を出してもらえることに感謝しないといけないな、本当に。
これからは頑張って親孝行しよう。

そんなわけで、あっという間に決まった検査入院。検査とはいえ、入院自体が初めてだから、今からちょっと楽しみ。病院は小平市にあって、国立市から行くとめっちゃ近い。実家からだと果てしなく遠い。それまではとりあえず彼の家にいよう。

明日は一日こもって仕事終わらせなくちゃ。
明後日はまた所用があるから。出産祝いも送りたいし。
がんばれ私。

今年もやるらしいです「前代未聞」の事を。

これは「宣伝では無い」と言いながらも「実質、宣伝」と言われそうな日記。
奈良を中心に活動している「市民吹奏楽団」の「セント・シンディーアンサンブル(通称、シンディー)」が、昨年、開催した「前代未聞」の企画を今年もやるとHPに掲載されていた。

 昨年の10月。「吹奏楽」と「落語」のコラボを行った。
吹奏楽は「シンディー」が担当し、音楽が演奏される中「桂枝雀」弟子で「桂九雀」が新作落語を行った。

 演目は「忠臣蔵」
これを大阪などで活動し、新作落語を多く手掛けている「小佐田 定雄」が、わざわざ、この企画の為に書き下ろした。

 落語が呆けたら、落語が突っ込み。落語が呆けたら音楽で突っ込む。正に「吹奏楽落語」実に面白かった。

 これを今年の11月9日、奈良の「樫原文化会館」でやると言うのである。
今度は奈良県との共催。
今から楽しみである。良かったら是非に。超お勧め。

 9月になると映画「舞妓はレディー」を見に行く。
10月1~3日の内、とれかに「高野山」
高野山で秋の「結縁灌頂」があり、それに参加する。
「結縁灌頂」とは「在家、出家を問わず」信者が「仏と縁を結ぶ儀式」
作家の「家田荘子」は、これよりも二つランク上の儀式を受け「住職」の資格を取った。

 11月は、ここで書いた「吹奏楽落語」
12月29日は「ともやさん」の「年忘れコンサート」

 色々と予定が詰まって来る。九月から年末まで、楽しみで有意義な事が色々とありそうである。

あなたと私

「貴方が笑えば、世界は貴方と共に笑う
貴方が泣くとき、貴方は一人で泣く」
「この地球は涙の谷
悩みごとや悲しいことでいっぱいだ
そこで喜びはどこからか借りてこなくてはならぬ
その借り方は・・・
あまり有効な方法ではないが、しかしこの方法しかないので、あえていうが・・とにかく笑ってみること
笑うことで喜びを借りてくることができる」
「人生が楽しい時、笑うことは誰にでも出来る。
でも、本当に偉大な人っていうのは、
人生の全てがうまくいかない時にでも、笑うことが出来るのよ」
笑うと決めるのです。
笑うと決めるから、笑えるのです。
笑顔や笑いは大切ですね♪周りの人にとっても、自分自身にとっても。
周りの人はその時だけだから、しかめっ面の人がいたとしてもその時だけで終わるけど、
自分がしかめっ面だったら、ず~っとしかめっ面と一緒です。
ず~っと一緒だとしたら、笑顔の方がイイですよね♪自分自身も♪
笑顔、笑い、意識していきます♪

19世紀~20世紀に活躍したアメリカの詩人“エラ・ウィーラー・ウィルコックス”の詩より

息子は悲しくて母を殴り、娘は憎悪で母を殺す。

家庭におけるお母さん(自分の親でも妻でもいいんだけど)と言う存在は、この国では「半奴隷」であると共に「万能の神(または完全な執事)」である、と思う。
 お母さんはお父さんの要求に応え、地域社会と協力し、甘えて来る息子に駄目だと思いつつ手を焼き、娘に自分の技を教える。お母さんは妻であり、社会人であり、母であり、先生である。
 だから家族、特に子どもたちは「お母さんが壊れる」なんて思わない(家庭によってはお父さんも)。
 でも、「老い」という経年劣化はいつかは誰にも訪れる。

 そうなった時、家族は困惑する。
「いつでもパワフルで元気な筈のお母さんが壊れる筈がない」
「今まで全てを賄ってきたお母さんが壊れたら、誰がその代わりをするんだろう」
「まず壊れた母の介護を誰がするの」

 息子が介護に携わる場合。
 慣れない家事を仕事と兼用することが難しい。男性は一つの事に100%力をつぎ込む事は得意だが、二つの事を40%づつの力でやる事は、社会的にも能力的にも難しいからだ。
 多くは介護と仕事の両立が難しくなり、転職を余儀なくされるか、辞めるか、ともかく社会の第一線から退く事になる。これは社会的に生きてきた人程、少しずつ介護生活中に澱となっていくストレスになる。
 彼らは目の前の哀れな女性が、昔のようにパワフルな母に戻ってくる事を、そんなことはありえないと医者から言い聞かせられていて頭ではわかっていても、心のどこかで期待する。そして期待すれば期待する程、それが裏切られる現実に苛立ち、悲しくなり、怒りを溜めていく。
「どうしてこんなこともできないんだ?」
「そうじゃないだろう?」
「何回言ったわかるんだ?」
 肉親として、長く「万能の母」を見てきたからこそ、そうでない現状がくやしくて、怒鳴り、時には手を上げる。でも、母は元に戻らない。むしろそうやって虐待されることで脳はますます委縮し、できることもできなくなっていく。それがますます息子を苛立たせる。
「どうして俺はこんなわからず屋の面倒をみる為に、仕事を辞めなくてはならなかったのか」
悪循環とストレスの支配で、虐待がとまらない。
「殺すつもりはなかった」
 でも、弱い母は、昔の強い姿に戻る事はなく、目の前で動かない肉の塊になってしまう。息子の胸には昔自分に手をかけてくれた母と、それを手に掛けてしまった親不幸な自分に対する後悔と、やっと何もかもから解放された安堵が複雑に絡み合って去来する。
 殺意なき介護疲れの典型例として紹介される例である。
 娘が介護に携わる場合。
 息子とはちょっと事情が異なる。というのも、娘と言うのは母にとっては無意識の「被支配物」である場合が多々見られるからだ。
 同じ3歳の男女がいて、「パンツはかせて」と息子が言うと母は「男の子は甘えたで困ったわね」と言いながら手を駆けるが、娘が言うと「3才なんだから、自分ではけるでしょ」と言われたりする。
 それは母にとって娘は同性である分、自分を投影する雛型であり、これから嫁に行って自分と同じように「半奴隷(または万能の執事)」として生きていかねばならない定めを持つので、その時に困らないようにといういらぬ配慮が働いてしまうからである。
 だから別に虐待というほどの虐待や、育児放棄などを経験しているわけでもないのに、「殺したいほどお母さん嫌い」という女の子がいるのは「お兄ちゃんや弟は全然しない手伝いを、私だけが強制されている」場合がある。
 また母親は娘を「友達」や「仮想母」に仕立て上げる事がある。こうなると、同年代の女性が集まって陰口をたたき合うがごとく娘に愚痴を聞かせたり、ストレスのはけ口に怒鳴ったりすることも、「どうして私の事をわかってくれないの?!」という駄々っ子のような要求を受けることがある。「お兄ちゃんは優しくされてるのに、私はそうされた事がない」という経験も、娘には多い。
 だから大人になってからの「母と娘のこじれ」というのは、男性の「父と息子のこじれ」以上に問題視される。後者の場合日本の文化性の中に「男は適齢期になったら一人立ちして、家庭を持つべきた(これがあるから、無職で親と同居する男性は蔑視されがちになる)」という概念があるため、経済的に許されれば物理的距離をとるという事が容易で直接的な接触を回避できるが、前者は「娘は身体的安全を考えれば結婚まで家に居るべき」という概念に縛られがちで、とりたくても適切な距離がとりにくいからだ。
 そこにきて母親が年をとり、娘に依存的になると、もう気持ち悪い距離感にウンザリすることとなる。
 その上、母親は「万能の神」である。娘はその神様からあんまり恩恵を受けてないので、逆らおうとする。しかし神様は弱っても娘の前でその地位をあけわたしはしない。弱さをアピールして哀れを誘い娘がそれを手放したら彼女が社会的に責められる舞台を用意する、気が狂ったようにして脅したり暴力をふるい自分の優位性を誇示する、など、ありとあらゆる手を尽くして娘が自分から離れていかないように縋りつく。
 女性は男性と違っていろいろな事を並行して行う事ができるが、自分の家庭、職場、プラス介護となると、社会に疎外されてしまった息子の場合とは真反対の「どうして私だけがこんな忙しくて辛い生活をしなくてはならないのよ!」というストレスが溜まってくる。
 そこへきて、幼いころからの母親の「将来嫁に行った時のための配慮」という名の支配や「同性だからこそ」の依存に対しての恨みがふつふつとわき上がる。
「殺すつもりはなかった」
 だが明らかな憎悪があった。介護の面倒で殺してやりたいと思っていなかったが、それまでの関係性から何度も思った。
 お母さんを愛していなかった訳ではないけれども、もう少し、適切な距離をとりたかった。でも彼女はあまりに私に依存的で、それから逃げ出せなかった。
 胸に去来するのは「お母さん、ごめんなさい」という後悔。そしてそれ以上に「これで私は解放される筈だ」という安堵だったりする。

 ここに上げた二例は結果が「母親の殺害」に繋がった極端な例ではある。ただ、殺意が無くても親を殺してしまう背景には、こういう事情は割と多い。
 だからこそ、これまでの介護は「嫁」などの他人が担ってきた。他人だからこそ、最終的に彼らには「殺しそうだから、私この仕事下りた!」と言える余地があったためである。そしてその余地があるんだと言う精神的余裕が、介護者を追い詰めなかったから。
 しかし、嫁が介護をするという風潮が、夫婦共働き社会の中で無くなりつつある。
 そうなってくると、実の息子や娘が、年老いた親を虐待死させる事は増えるのではないだろうか。

 殺意がなくたって、殺人に追い込まれる、その暗い現実が、高齢社会の中には存在している。