おひさー、まいビッチ

10年前の黄ばんだ動物占いで、もれなく「子鹿」の二つ名をいただいた。結果からいうと、あながち間違ってはいないかなと思う。
三体牛鞭
ほら、ボク足ぷrぷr病ですし。

とにかくお久しぶりです。

というか、特に絡んでいないので、適切かどうか分からない表現ですが、日記の期間が空いていたのは事実。それもそのはず、アル試験を受ける必要があったのだ。簡単に言うと就活に近い。

ただ、

ただ、


おちますんんたああああああ

あー、めんどくさい度MAX今から就活ってなんの冗談ですかマイゴッド!って漏らしても、やるしかないわけで、働かないという選択肢は無い。ただ、場所がないのでチャンスみつつ、あんまふて腐れずにやっていこうかなと。

絶対、精神的に病むとか。
あきらめるとかは無い方向で。

持ち前のてきとーをイカして。くさい。

職場あれば紹介してく(殴

いや、本当は、元彼鬼女の話とか、旧セ○レの話とか、ネタはあったのですが、書く気力がドーパミンと一緒に引っ越ししていきましたで早漏。
五便宝
既卒は辛いね!おらこんな村いやだー。
新たに日記を書くかどうかは別として生存報告です。
1ヶ月も空くと、前いた人とか居なくなってますねw

徳川家康

人質として過ごした日々 律儀さと老獪さ。
ru486
その形成された背景は、前半生の忍従の日々と無関係ではないだろう。

3歳で母に生き別れた。6歳のとき織田氏に捕らわれ、二年半を尾張で過ごしたのち、駿府の今川氏のもとで11年の人質生活を送る。

もっとも、人質といっても、虜囚のような過酷なものでなかったよつかうだ。

元服の際、義元から一字を拝領して元信と名乗り、義元の姪を正室に迎えるなど、重臣並みの厚遇を受けた。

日常的にも鷹狩りに興じ、平岩親吉や鳥居元忠らと百舌(もず)を飼い慣らして遊ぶこともあった。

学問は、義元の軍師で当代きっての碩学である大原崇ふ が家庭教師についている。

家康の生涯の中でも、比較的平穏な日々だったといえよう。

家臣たちの苦労も一通りではなかった。

1549年、父、広忠が家臣に殺されると、岡崎城は今川氏に接収された。

領地から上がる年貢は今川氏に横領され、禄をもらえぬ家臣たちは自ら田畑を耕した。

合戦では常に最前線に立たされ、多くの犠牲を払わされた。
ru486
それでも、譜代の家臣たちは家康の帰国を願い、来るべき自立の時に備えて金銭や糧米を蓄えていたという。

いよいよ…

今日、まず1ヶ所から採用ならば、連絡がくる…
淫インモラル

かなりドキドキだけど、ダメなら新しい版でまた探そう

って気に黒髪にしてから思えた

とある知人から連絡があり、知り合いの会社が事務員を募集していると言う、情報で、パソコンでエクセルが出来るのが必須との事…

出来なくはないけど…その会社がどこまで求めているか…

色々と調べてくれた…

でも…確かに時給がいいし、あたしの私用での休みも合う…

そこも悩むんだけど、でも自分の力で探したいのが…先かな

いままでが、やはり紹介だったり甘かったから…

紅蜘蛛
とりあえず今日連絡を待ってよう…