身体論

肉の存在論や感覚器官など「身体」について論じているのはメルロ=ポンティというフランスの哲学者でデカルト以来の哲学を否定した人である。
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車を運転する場合、「古典的心理学」では、「車幅は何センチ、左の塀と右の電信柱の感覚は何センチ、だからハンドルを5度ほど切ればこすらない」と推理する。感覚器官への刺激が入力としてあって、神経組織に触れ、それが脳に伝わる、と考えるが、
メルロ=ポンティに言わせると違う。そんなこと考えていたらぶつかってしまう。建物と塀の間を入っていけるかどうかは見ただけでわかる。身体が車のボディの端まで伸びている、というのがメルロ=ポンティの考え方である。

古典心理学だと身体を物体みたいに考えるが、我々はそんな風に自分の身体を了解して動いているのと違う、身体は自分だとメルロ=ポンティは言う。
デカルトは人間は精神と物体、心と体で成り立っていると考えたが、それは嘘だ。人間の基礎は精神でも物体でもなく身体であると、デカルト以来の哲学をひっくり返した。

西欧の哲学や考え方は、デカルトのように心と体、あるいは自然と文化を区別して考えるという2元論が基本である。

ところが日本にはもともと自然(しぜん)という意味の言葉はなかった。昔は「じねん」と呼ばれ自然薯などに見られるように「おのずから生じた」という意味の形容動詞であった。現在の自然にあたるものは森羅万象とか山川草木とか呼ばれ、自然と文化は区別さてれていなく、神様も田の神、水神、山神などいろんな姿をとってあらわれてくる。

西欧近代における自然と文化の対立は自然と文化の連続性が失われた結果として生じた思想であった。

今、環境問題などで西欧的思想は限界にきたから日本的な精神を考えるべきだと言う人もいたり、科学の進歩により西欧哲学は無用だ、哲学的問題も科学によって解けると言う人もいて、どうも今哲学も受難のときのようである。
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でも、今人々は個人の利益や変化の享楽を求め、どこにもないセイフティネットを当てにして現状維持を望みながら目立たず、楽に生きようとしている。空気を読むのにだけ長け、イイネばかり欲しがる人ばかり増えると日本の将来も不安である(笑)
やはり哲学的思考は必要か。
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