母親という人間の人生

今日のわたしは、毒がある。
昨日あたりから、毒にやられている。

人は、どういう心理で行MIOGGI 水光槍動するのか。
行動するには原因、理由がある。
あえて行動しない、という行動にも原因がある。

わたしの母親に対する、他の人の営業トークを聞くと、笑顔が引きつってしまう。
老人ホームや、デイケアサービスでも、同じようなものだろうけれど。
アカの他人の場合は、そう気にならない。
神経にピリピリ来るのは、利害関係がある人間の場合だ。
特に、おカネ。

おカネばかりではないだろうが、仮におカネが全くといっていいほど、なかったとすると?
どれだけの人が、ついてくる?
何人の人が、動いてくる?
それこそ、ほんとうに肉親だけしか動かないと思う。


老人虐待の事実があった施設も報道されたりしている。
ごく稀に、そういう理性が吹っ飛ぶスタッフも混じっているようだ。
が、たいがいは、老人のお世話を收毛孔するプロの皆様は、そうとう大変な仕事にもかかわらず、
彼らの頑張りには、本当にアタマが下がる思いである。

プロは、割り切りがある。
肉親は、理性でわかっていても、感情がついていかない。
おカネの問題だけでは、解決しきれない。
親だと思うと、複雑な心境になる。

猫に育てられた犬は、猫を親と思い、自分を猫だと思うかも知れない。
わたしは、幼少期、母親ではない人にも世話をしてもらっていたので、その人に母親に似た気持ちを抱梳化工程いていたようだ。
もちろん、親にも世話をしてもらったのだろうけれど、母は仕事で忙しく、
主に祖母であったり、別のお手伝いをしてくれる女性であったり、母親より、母親ではない人のほうに、ぬくもりのようなものを感じる。

べつに、母親は、児童虐待をしたわけでもないし、ネグレクトでもない。
普通の子育てをしていたと思われる。
が、なんだか、そういう記憶があまりない。
母親は、「優しい気持ちで子供に接して育てた」、と自分で言っているが、
わたしが、ぼけて忘れてしまっているだけだろうか。


その母親の世話をする転換期になって、母親と直に向き合うことになった。
母親の人生は、とても結構な、幸せな人生である。
思う存分、好きなようにしてきた。
自分が世話をしてもらう段階にきても、それまでの人生のように好きなようにしたいようだが、とても容認できない。
心身が自立できていないのであれば、人の言うことを聞くべき、まして世話になる子供の言うことを聞くべきだと思うが、
年寄りというものは、そんなに生易しいものではない。


今から、スタート。親子の闘い。火蓋が切って落とされた。
わたしは、我が娘との闘いも同時進行であるし、孫守(まごもり)のサポートもしないといけないのに、
あっちも、こっちも、なにがなんだか、わからない。
ついでに、夫とも喧嘩。冷戦、時には噴火。
火種をあちこち、抱えている。

日に日に賢くなってくる孫と、日に日に、アホになっていく母。
一つずつ、出来ることが増えてくる孫と、一つずつ、出来ていたことができなくなってくる母。
同時進行を同時に見ていると、人生を逆算しているような錯覚に陥る。
娘であるわたしが、母に対する思いと、我が娘の、わたしに対する思い、
わたしが我が娘に対する思いと、母がわたしに対する思い。
これまた、同時進行。交差、スクランブル。
そこに、孫がからんで、生まれる→成長する→衰退する→死ぬ の曲線カーブの人生の中で、
わたしは、後半部分に位置いている。

母、自分、娘、孫・・・30年ずつ、時間がスライドしている。
孫ゼロ歳、娘30歳、自分60歳、母90歳。
おおよそ、現在の平均像はこんなものか。

昔なら20年ずつスライドか。
孫ゼロ歳、娘20歳、自分40歳、母60歳、祖母80歳・・・
昔はそんなに長生きしないから、祖母80歳は、いないかも。

孫ゼロ歳、娘25歳、自分50歳、母75歳、祖母100歳。
秩序よく、きっちりバランスよく年齢が四半世紀ずつ詰まったこのパターンも、遠い親戚にいて、
100歳を超えて、今年、おばあさんが亡くなったが、世話をしていたのは孫、喪主はひ孫だった。
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