脱獄

「セインツ -約束の果て-」を観る。

離ればなれとなりながらも互いに求め合う犯罪者カップルを演じた哀切のクライム・ドラマ。

恋人に会いたい気持ちは時としてとんでもない力になる。

ましてやそこに子供もいれば。

脱獄だってしちゃうのかな。

出来れば2人には罪を償ってから再会して欲しかった。

中途半端な再会は最悪の結末しか生まないのだから。

暗く光が見えない作品でした。

「今読んでもおもしろい」かは微妙かな(苦笑い)

ラノベの「往年の名作」ということでいくつも名前が挙がっていますが、
「今でもおもしろい」かどうかは、ちょっと異論があるかな。
いや「今」がどうこうではなく、
当時から「おもしろくない」と感じていた人もいるだろうって話で。
たとえばこの日記を書いてる人間とか(苦笑い)。


これはイチャモンに近い理由ではあるんですが、
ぼくは一部を除いて「剣と魔法の世界」、
ジャパニーズファンタジーの世界観がまったくダメな人間なので、
挙げられた作品群のほとんどすべてがダメだったんですよ(苦笑い)。
「十二国記」はまったく触れてないからおもしろいかもしれないが。

で、ジャパニーズファンタジーとは違う
「無責任男シリーズ」も「ブギーポップ」も肌に合わず敬遠していまして、
この中で読んでたのって「ヤマモトヨーコ」くらいかなあ。
「ヤマモトヨーコ」はどのくらい好きだったかというと、
文庫本一冊分くらいになる長編二次小説を書いたりするくらい好きだった(笑)。
ただ「ヤマモトヨーコ」は時事ネタがふんだんに含まれているから、
今の若者たちが読んでもわからないことも多いかもしれないなー。
女子高生が携帯持ってるのが珍しい時期だから(苦笑い)。

「ヤマモトヨーコ」はOVAやTVアニメにもなったけど、
メインキャラ四人のうち三人の「中の人」が、
名探偵アニメでいうと、コナン、灰原、和葉ってのが時代だね(笑)。
まあ当時このお三方は、出てない作品探す方が難しかったかもしれんが(苦笑い)。
新山志保さんはいまだに残念だ…


とはいえいわゆるラノベをまったく読んでなかったということはなかった。
より正確にいうと、今ラノベものとして定着しているレーベルの、
ラノベというものが確立されていなかった時代の作品はそこそこ読んでいたというか。


当時のラノベレーベルは
「スレイヤーズ!」や「無責任男シリーズ」みたいなオリジナルもあったが、
アニメやゲームの小説化した作品が多かった気がするな。
自分が読んでたのを思い出してみると
「天地無用!」「魔法使いTai!」「ルームメイト 井上涼子」
「フォトジェニック」「膝の上の同居人(パートナー)」等々だからね。
プレステ1とかセガサターンの時代ですよ(笑)。


オリジナルで全巻買って読んでたのは、
さっきも書いた「それゆけ!宇宙戦艦ヤマモトヨーコ」と「セイバーマリオネットJ」くらいか。
あ、あと全巻ではないけど「まぶらほ」はほとんど買ってるな(笑)。
ちょっと前に完結したから「まぶらほ」をもって自分の中でラノベは終わったってところはある。


あと厳密にラノベではないけど、
スニーカーで小説化されたギャルゲー「センチメンタルグラフティ」はよかったな(笑)。
いろいろ揶揄されることも多いセンチですが、ぼくとしては純粋に好きです。
メインライターの大倉らいたさんが書いた小説は「~約束」「~再会」の二冊が出ていて、
タイトル通り12人のヒロインたちが
プレイヤーキャラである主人公との出会いと再会を描いている、短編のオムニバス作品。
大倉らいたさんのシナリオや小説は、恋心をヘンにチャカしたりお洒落に演出したりせず、
淡くストレートに表現しているので、受け手が素直に見られるなら、
甘酸っぱさが残りつつも大変すっきりとしたいい気分になれるのですよ。

「~再会」のあとがきによると「~告白」「~熱愛」という構想もあったようで、
それは読みたかったなあと今でも残念に思っています(照)。

オートミールのズッキーニ詰め

ズッキーニの中身をくりぬき、オートミールを詰めて焼いた一品です。
玉ねぎ、にんじん、ズッキーニ(中身)、ニンニクをみじん切りにして炒め、そこにオートミールとトマトジュースを加えて煮た具を詰めました。

しゃべる

今日は新しい団体に初参加。
人と接することに慣れないと!と入ったけど、
役で毎日、人と話してるからいらなかったかもと思いながら。

でもとっても楽しかった!
失礼な話してないか心配やけど、少しでも楽しめる雰囲気を心がけて話が出来た!

そのあとも、1日色んな人と話しまくった!

めちゃくちゃ疲れた!くしゃみしすぎで腰痛い!眠い!
でもカラオケ行きたい!←

最近大変やけど、その反面楽しいこと多い(*^^*)
女性の輪が苦手だったけど、少しずつほどけてきた気がする。
苦手なタイプの人や、過去色々あった人に似た雰囲気の人はやっぱり苦手やけど。

少しずつ、前向きになれてる。
私の周りの人に本当に感謝。

ペットボトルのリサイクル!そのためにしなければならないのは?

こんばんは。

本日は授業でディベートを行いました。
「ペットボトル容器のデポジット制度について」。
想定している制度としては、
すべてのペットボトルに購入時の値段に10円上乗せした値段を付け販売し、そのペットボトルを使用後に回収所に持参した場合には10円を返却する
というものです。

ドイツなどの国では、ビンについてこの制度を行い、集められたビンを洗浄したのちに「リユース」を行っているということもあり、この制度を日本でもペットボトルで導入しようというものです。


10円のためにペットボトルを持ってくるのか。
その議論については難しいものがあると思います。
さらに日本では現時点ですでに9割以上のペットボトルの回収率を達成しています。
これ以上に伸ばすことはできるのか。
これについてはあまり期待を持てないかもしれません。
しかし、回収した後のプロセスを考えるとこれは必要なものと考えることができるのです。


集められたペットボトルはリサイクルされたり、焼却されたりします。
その時には不純物がない状態にしておかなければならないので、回収された後に洗浄や選別が行われています。
そこには多くのお金が必要になります。
その費用は削減できないのか。

洗浄、選別というのは容器が汚れていたり、様々なものが混入してしまったりしていることによって必要になってくるのです。

上で提案したシステムを導入すると同時に、洗浄を「義務化」してしまえば、きれいで異物の混入がされていないものが集められることができるのです。
これによって集められたものは低コストで次の段階に移すことができるのです。
また、汚れが少なければ、リサイクルするのに適している容器の量も増えると考えられるのです。

現在でも家庭ごみの収集時にはペットボトルの中身は水で洗うことは必要とされています。
しかし、洗われることなくペットボトル容器が出されていることも見かけることがあります。
一人ひとりにとっては少しの手間でしかないのに、それをしないがために、大量に集まった容器を多くのお金をかけて洗浄する必要が出てきてしまうのです。

「回収してくれるから洗わなくてもいい」
「洗わないと回収してくれないから洗う」
という単純な考えではなく、その先でどのようなことがなされているのかを見極めて行動するべきであると思います。

そのようなことができないのであれば、上で示したような制度の導入も必要であるように思います。


何にしても現状必要なのは、容器をきれいな状態で回収することです。
まずは我々の日々の行動から見直すべきです。
もちろん守られている人がほとんどですが、ペットボトルは洗ってから出すようにしなければなりません。
一人ひとりの意識が大きな違いにつながるのですね。


それではこのあたりで失礼します。

クリーピー 偽りの隣人/まだまだ行くの?

冒頭、取調室の窓にはまった格子の隙間に「西島秀俊」「竹内結子」「香川照之」のクレジットが隙間一つに漢字一つといった按配ではめこまれていく端正と几帳面にうつつを抜かしかけた頃、「監督 黒沢清」のクレジットがまったく格子をはみ出してふっとあらわれる変調に心はざわめいてしまうわけで、そもそもが現実の面会室に即したセットを組むことなどいくらでも可能なところが、陽のさんさんと降り注ぐ開放的とすら言ってもいい空間を取調室と言い張る上に、野上(東出昌大)がオートマティックを取り出す保管庫はもはや廊下におかれた靴箱にしか見えず、黒沢作品では既になじみと言ってもいいこの“警察署のような何か”を続けざまに浴びせられた時点で既に気は遠くなっている。何より今作において明白なのは、ワタシ達がいつもながらにコレジャナイと呟いた世界の様相を涼やかに留保することなく、そう、世界はコレジャナイんだと返答していたことで、黒沢清の見立てた世界はこれほどまでに傾いでいて、しかしすべての主人公達はこれまでずっとその世界を必死になって時には命がけで立て直そうとしてきたことを、その答えが高倉康子(竹内結子)の世界を絶縁するような絶叫だったとしても、まったくあきらめることをしないからこそ地獄に堕ちる時ですら切なさを宿しているのだということを、だってそれ以外に人間ができることなどないじゃないかと問わず語りに告げていたように思うのだ。したがって、今作は傾いだ世界をいかに自明とするかという注力が清冽ですらあるわけで、草木はいつにもまして風向きの読めぬ風にねぶられ、仮初めの境界たるカーテンやビニールシートはいつになれば我が身が定まるものかといっそう烈しく身悶える一方で、ガラスの向こうで繰り広げられる音のない喧噪はこちら側こそが彼岸であることを映しているかのようである。「あれは鬼です。一見ふつうに見えるけど人の心は持ってないですよ」と高倉(西島秀俊)に告げ口する田中を背後から睨む西野家の門柱は一瞬憎悪に身じろぎすらしたように見えはしなかったか。その直截的なメタファーなど思い出してみれば、西野の差し出す拳銃の銃身を両手で慈しむように包み握りしめる康子の破滅的なエロティックは黒沢作品の更新ではないのか。「これがあんたの落とし穴だ」という高倉(西島秀俊)の捨てゼリフがまったく痛快も快哉も呼ぶことをしないのは、自身も含めた全員がとっくに穴の底へ落ちていることに気づいていないからだし、高倉が傾いだ世界の角度を見ぬいたつもりでいられるのは、自身もまた西野のように傾いだところのある人間だからに過ぎず、康子があきらめていたのはその傾いだ角度に自分を修正する試みであったことに他ならない。地下室における康子の背信はそのことにどこまで行っても気づくことがない高倉(「たまにいるんだよ、あんたみたいな人」)への愛と絶望の両極が仕向けた捨て身であったからこそ、クッキーを高倉の口元に運ぶ康子は一瞬とはいえ満ち足りたひとときを得たのではなかろうか。言うまでもなく黒沢作品において世界を立て直す試みに我が身を捧げるのは女性たちであり、康子もまたその闘争に殉じた一人なのは間違いがなく、ひとり結晶のような静謐に閉じこもった西野が去ったことで康子は声を取り戻したけれど、その声でいくら自分が叫んでもそれは傾いだ世界の漆黒にずれた隙間に消えたまま夫には届かないその絶望が絶叫を呼んで、少しくらい世界に悲鳴をあげさせないと君たちは自分の足下を確かめないだろう?と監督は少しだけ得意気に微笑んだように思うのである。それにしても藤野涼子である。幾度となく香川照之の直撃をくらって吹っ飛んだり立ち尽くしたりしつつ、出演2作目の16歳がそれにことごとく受け身をとっているのである。そしてこの女優は死体を真空パックすることの意味と都合を“わかって”動いている。しかもその作業に手慣れてしまった透明の哀しみすら漂わせてである。彼女のハードボイルドな資質は都市型の監督から今後もてはやされはずだし、遅かれ早かれ塚本晋也の作品に出ることにもなるのだろう。広瀬すずの圧政に苦しむかと思われた日々のまさにジャンヌダルクである。怪優モードを嬉々として遂行していた香川照之がラストのシークエンスで屋上から望遠鏡で次の獲物を物色するシーン、CGを使わずにあれほど人の顔は歪むのだという事実に感動すらおぼえたことも忘れず記しておきたい。謎の炒め物、謎のシチュー、謎のクッキーも最凶。
Calendar
«  August 2016  »
S
M
T
W
T
F
S

 
1
2
4
5
7
9
10
12
13
14
15
17
18
19
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
 
 
 

search this blog.
recent comment
category
archives
links
others