やあやあ、僕だよ

なんとなく仕事が忙しかったり、なんとなくアプリのゲームにハマってみたり、慢性的にお金がなくて何事にもモチベーションが上がらなかったり、馴れ合いに違和感を感じて暫く離れてみてたわけなんですが、今日些細なことでふと一人で街に繰り出したら、実は自分には友達と呼べる人が少ないんじゃないだろうかと気付いて淋しい気分になった、どうも僕です☆てへぺろ

昔絡んだ人はお久しぶり
初めましての人はよろしくね


友達っつーかさ

一人でいるよりも目の前のリアクションくれる人のことを考えてる方が楽な時ってあるじゃない?
笑ってくれたり、喜んでくれたらそこからパワー貰えてこっちの気持ちも上向いてくる、みたいな

でも、仮に呼び出して会ったとしても、特にやることもなく行く場所も決まってなく、下手したら会話もたいして無い(更に言えばこっちのテンションはやたら低い)、という

そんなちょっと特殊な時に声掛けられる人が割と本当に友達なんじゃないかと思ったんだけど、皆さんはそういう友達って居ますか?

いやあ、僕はゼロでした

沢山の人が思い浮かんだけど、普段仲良くしてる(してた)分、そういう時に無目的で連絡するとまず間違いなく心配されると思ってしまって

「どうしたー?」と
や、どうもしてないよ、と
どうかしたとしても今説明するのは面倒で、連絡した義理もあって無理くり説明しても上手く伝わる自信がないよ、と
その上「なんか今日おかしいね?」みたいなこと言われたら余計に気持ちが捻くれていくぜ、ああ面倒くさい


結果、
ここで遥か昔に連絡先を交換してさっぱり連絡してない、薄ーい関係性の人に突発で会えないか聞いてみるのが、なんとなく一番現実的だったりするような気がして

生存確認的な意味合いも込めて久方ぶりにログインした次第です


結局のところ誰にも何も言えず、古本屋で漫画読んで帰って来るというヘタレっぷり

人に頼れないのを頼らない強さだと勘違いしたまま大人になりました
根は淋しがりなのに、本当に欲するときは遠慮するっていう謎仕様

ああ面倒くさい
でもいつものこと
そしてそんな自分が嫌いじゃない

なんなんでしょうね

米国版ゴジラ(新作)

先日、米国版の新作「ゴジラ」を見てきた。
(ネタバレありですので、未見の方はご注意ください。)
一言で感想を言うなら、「大変よくできた平成版ゴジラ」である。(「ミレニアム」でもいいが。)あるいは、「昭和ゴジラ(末期)と平成(ミレニアム)ゴジラをアウフヘーベン(止揚)したもの」と言っても良いかもしれない。

1984年に復活したゴジラは、「昭和ゴジラは『人類の味方』になって堕落した」という「反省」から、原点回帰が図られ、あくまでも「人類の敵」と位置付けられた。これは平成ゴジラシリーズ、ミレニアムシリーズを通じて絶対不可侵の「ドグマ(教義)」として受け継がれてきた。それはゴジラ映画を「お子さま向け」にしたくないという制作者の強い意志の現れではあったが、反面、ストーリーに多大な制約を加えることになった。そのため観客動員はじり貧になり、また「人類の味方」であることをむしろ売りにした平成ガメラがヒットしたりという現象がおきた。

今回のゴジラは「人類の敵ではないが味方でもない」という位置付けに成功している。これは大したことではあるが、反面、ゴジラが敵ではないことを示すためにトリッキーな、推理小説でいうところのミスディレクション(発電所跡地で管理していたのはゴジラじゃなかった!)や、演出上の「肩透かし(ゴジラが暴れる場面が子供が見てるテレビに切り替わる)」を多用していて、結果として、ゴジラはなかなか出てこず、印象を薄めている。芹沢博士はじめ誰も「ゴジラ」への思い入れはないのである。映画のタイトルは「ゴジラ対ムートー」とすべきだったと思う。

とは言うものの、やはり最新技術で暴れるゴジラは見事である。また、日本からプロデューサーとして「ゴジラ対ヘドラ」の板野義光監督が加わっているため、ヘドラのテイストが加味されているのも良い。芹沢博士は「ゴジラは秩序を回復しにきた」というが、これはまさにゴジラ対ヘドラでのゴジラの位置付けだ。
反核メッセージが全くないとの批判はもっともではあるが、しかし40年前、ゴジラ対メガロでは、既に核実験の被害者である海底王国シートピアの人々をただの悪役として扱っている。本作品だけを批判しても始まらない。こんなところも昭和ゴジラ(末期)的なのだ。

本作品は説明不足と思える箇所が多い。これは4時間ぐらいになったものを短くしたためとも言う。次回作では、二時間でも分かりやすいものにしてほしいと思う。期待してます