春が待ち遠しい季節。

春が待ち遠しい季節。
そんな中、京都から大阪・淀屋橋を往復している「京阪電車」に乗ったり、見たりしていると「早く、四月にならないかなぁ」と思う。

 四月になれば、今年初めて、通算四度目の「高野山巡礼」に行く計画をしている。四月と言うのは「高野山も雪解け」と言うのもあるが、「高野山1dayチケット」が発売されるからである。
 しかし「何故、高野山に何度も行きたくなるか」が私自身にも解らないところがある。
何しろ、当日は早朝、ほぼ始発の京阪電車に乗り、大阪地下鉄と南海電車を乗り継いて行かねばならない。朝5時に家を出て、高野山口に着くのは9時頃。そこからバスに乗り、奥之院への参道を歩いて「奥之院燈籠堂」に着くのは9時半。
4時間以上もかけて行くのだから、他人から見たら「おかしな人」としか写らない。

 私なりに、「ここまでして行く理由」を分析してみた。
何故か、高野山に行く時は「ウキウキ気分」である。何か楽しい事がある訳でも無いのにである。
 ようやく「高野山口」に辿り着くと何故か気が行き締まり、持参した数珠を握りしめたくなる。
 奥之院への参道入り口に来ると更に気が締まる。高野槇が参道を薄暗くし、下界から遮断された雰囲気が何とも言えない。金剛杖などを持ち、白装束の背中に「南無大師遍照金剛」と書かれ、白い鞄には「同行二人」と書かれた「巡礼者」と多くすれ違う。
奥之院への参道では私も自然と何故か「真言」を口にする。真言を唱えながら、ひたすら奥之院へと向かう。
 奥之院入り口の「御廟橋」では案内に「ここからは聖域です。一礼して御渡りください」と書いてあるが、不思議と自然に一礼する自分がいる。

 燈籠堂に入る時も一礼。外陣に上がり、僧侶が読む「理趣経」を一緒にも唱えると心が清々しい気持ちとなる。最初に行った時、ここで手を合わせた。不思議と涙が出て来た。それに似た気持ちを毎回体験する。
勿論、真言、御宝号、般若心経も唱える。
 御廟前では多くの観光客が手を合わせているが、その中に混じって、巡礼者や信者が思い思いの経を唱えている。理趣経や観音経も聞こえる。私も、その人たちに混じり、「仏前勤行次第」を唱える。この時の心境は「また来ました」である。私は「宿題の提出に来た」と思っている。すると、新たな宿題を与えられた気分になり、反省するべき事、至らぬ事が頭をよぎるのである。

 奥之院を後にし、金剛峯寺エリアに向かう。
金剛峯寺エリアの大伽藍などでは奥之院とは全く違う雰囲気となり、観光バスが多く止まり、観光地となっている。
しかし、そんな中、私は大伽藍の「根本大塔」や「金堂」「御影堂」で般若心経を唱える。

 高野山を後にする時、何故か日常の自分とは違った姿になっている事が多い。
この時、改めて「来て良かった」と実感する。
今年も時間が許す限り、高野山巡礼を続けようと思う。

そんな事を考え、春が待ち遠しい昨今である。

ソードアートオンライン

今週は(毎週録画なわけだが)、凄い泣けるというか近未来(?)な
話。アスナが入っていたギルドは末期的な病気のヒトたちで構成され
たギルドで・・・って話。
脳と直接対話するインターフェースなので殆どの生命機能が停止して
いてもバーチャルな空間では健常者と同じ(アニメではずっと強い)
人間として振舞える。

ま、あくまでアニメの世界。最初から「見えない」とか「聞こえ
ない」という人の脳に「見える」「聞こえる」といった刺激を脳に
供給して、その人に「経験値」を与えたれるところまで進化できる
かどうかは、それこそ人類の進歩にかかわってくるだろうなぁ、と。
「世にも奇妙な物語」でヴァーチャル世界で殺人しまくってた奴が
実はヴァーチャルではなかっただったか、そういった話もあった
ような。
FF11やFF14といったアニメの世界とは程遠いヴァーチャル世界で
もリアルをかなり犠牲にしてる人もいるし、なかなか他人のいる
ヴァーチャル世界ってのは奥が深い。両方とも相当に他人の存在
するオフラインゲームに近いんだけどね。