『江戸っ子の倅』

池部良著『江戸っ子の倅』読了。
俳優であると同時に文筆家である
著者の名は、
私の大好きな高峰秀子さんと
並び称されることが多く
いつも気になっていました。

なんとなく、
「本当にいいものに囲まれ、
人との絆を愛し、
お気に入りの味にこだわる」
…という感じを想像していたら、
まったく違いました。

この方の文には、
予定調和というものが
あまりない。

「本」を語れば
これまでの人生で
たいして印象に残る本が
ないとばっさり。
本=私の世界を広げてくれた と、
思い出を語りはじめるのが
この手のエッセイの定石かと
思ってたのに。

「結婚式のときに見た新妻の手」といえば、
小さくてかわいらしいイメージですが、
著者による描写は
「干した白魚のようで痛々しかった」だって。
なんだよそれ!

リフォームを語れば、
業者がちっとも思い通りに
やってくれなかったことを
伏せ字なしでぶっちゃける。
「それもいい思い出、
今ではこの家に愛着が…」
というフォローも
いっさいなし。

著者は江戸っ子の両親に
育てられたから、
しみったれた、
決まりきった流れが
嫌いなのかしら。

江戸っ子といえば、
ところどころ落語を思わせるような
箇所もあります。

『闘魚』で姉弟を演じた里見藍子と、
演技の研究のために
姉弟を演じながら銀座を歩いていると、
洋画家の著者の父親が通りかかる。
女性に「お父さん」と呼ばれた父は
てっきりこの女優が息子のいいひとであろうと
思い込む。
そのとんちんかんなやりとりが
まるで落語でした。

デコちゃんの『わたしの渡世日記』を読んで、
私は、スターがスターであった時代に
女優・俳優として生きることの
重圧を1行ごとに感じました。
その重圧があったからこそ、
デコちゃんはああいうデコちゃんに
なりえたのだと思うのですが、
とにかく、何かを食べに行くにしても、
恋愛をするにしても、
スターであるということは
すべてに影を落とす。

しかし、池部良のこの本を
読んだら、
拍子抜けしてしまいました。
池部良はスターだけれども、
スターの自分のほかに、
江戸っ子の両親の倅であったり、
○○中学の卒業生であったり、
戦争経験者であったり、
銀座の店○○の客であったり、
たくさんの違った自分を持っている。

男性と女性の違いもあるかも
しれませんが、
やっぱり、芸能界に入った時点で
どれだけ「自分」が完成していたか
っていうのが大きいのかも。

興味深い本でした。
著者の映画を見てみたくなりました。
威哥王
三便宝