多くの人が言っている

孫(ベビー)、子供(社会人)、自分(シニア)、親(高齢者)、・・・・
支えたり、支えられたり、の、ちょうど自分は中間にあって、
軸足を決め、どこにでもフットワーク軽く動けるように、スタンバイしたいものである。


・・・と理想を書きつつ、
(あくまでの理想。理想はどんなダメな人でも、誰でも言うことができる)

これは、まだ育児サポートや、介護が本格的に始まっていないから、
できもしない、うわっすべりなことを言っているだけで、
実際、幕が切って落とされたら、いちばん自分が、みんなからのサポートが必要になったりして・・・。
足が痛いだの、どこやらが悪いだの・・・
孫や老親からヘルプの要請を受けても、すぐには動けず、
持病を悪化させて、まだ、なにも調理油お手伝いもしてなくて役にも立ってないのに、
みんなの足手まといになる可能性は、・・・充分ある。

ご近所ブログ以外のブログをちらちら見ていると、
なんだか眠くなってきた。
首かっくん。舟こぎ。

なんでだろ?
あ、きっと、年齢の違い。
なので、興味の対象が違うし、行動も違う。
だから、眠くなるんだろう。

年齢って、大きい。
個性がみんな違うんだから、年齢も関係ない、と言いたいところだが、
いやいや、年齢は、非常に絶対的な要素、影響をもつ。
人生経験や、それにともなう精神能量水年齢もさることながら、カラダの絶対年齢というものは、動きようがない。
肉体!!健康!!
はずすことのできない重要不可欠キーワード。

健やかな精神は、健やかなカラダに宿る。
かといって、病気がちな人が、暗くてだめ、なんて、まったく言っていなくて、
病気の人はほんとうに、その気力、頑張りにはアタマが下がる思い。
生活の芯、軸となる、行動力の原点であるカラダが、自分の思い通りにならないのだから。
こんな苦痛に耐えることは、筆舌に尽くしがたい。


年齢が違うということは、
子供の年齢も、子育ての段階も違うし、親の年齢も違う。
そのあたりで、生活が全然、違う。
なにを中心に回っているかという、軸になるものが違う。
同じように仕事をしていたとしても、
働く意味や、働き方まで違ってくるような気がする。

足腰が動くうちに・・・と、耳年寄りのごとく、ことを見聞きしていたものの、
知識のうちのひとつとして他人事のように思っていた。
自分のこととして捉える時期が、ほんとうに足音を立てて刻一刻と近づいていると実感する。

こんなキモチは、若い人にはわからない。
ほんの少し前の自分でさえ、ぜんぜんピンときていなかったのだから。

どうにか助けにな

と、助走。ウォーミングアップ。
体がなかなか温まらない。脳が、秋風。
時計を気にしつつ、あと15分しかない。
なら、更新しなければいいのだが、これは中毒染髮焗油なので、アップしないと、スッキリしない。

と、無意味に助走時間を延ばす。
その分、持ち時間は、どんどん減る。

???

コトバについて。

コトバの違う国での体験。

コトバが通じないとい染髮焗油うのは、おもしろい緊張感を生み出す。
黙っていれば、普通の人。(→わたし)
他の人から見れば、社会におそらく溶け込んで暮らしているだろうと思われる。

が、じつは、コトバがわからない。言語が理解できない。
読めない、書けない、聞けない、話せない。
脳は、まあ、ちょっとトロめではあるが、動いている。
コトバに関してだけは、完璧にフリips 整容ーズしている。

なので、挨拶や笑顔、ジェスチャー、回りの反応からの想像力を駆使するしかない。
皆さんの行動を見て判断し、マネをしてみる。
その国の暮らしを深く予習していて、熟知しているのなら怖くもなんともないだろうが、
わたしの場合、予習しない。できない。
土壇場にならないと、動かない、動けない。

とりあえず、にっこり。
会話が出来ないので、顔で会話。
もちろん、深いハナシなど、まったく出来ない。
「ボンジュール」と「オヴォワアール(わたしには、そう聞こえる)」
「こんにちわ」と「さようなら」
これだけで2週間。

なかなか面白い体験である。

???

辞書がある。
地図もある。
両方、電子である。
インターネットもある。

そうすると、まったくコトバがわからなくても、どうにかなる。
出かけるには、地図は頼りになる。
手足が少し動くことと、目が見えることが、った。

もうすぐすると、いまよりもっと高性能な言語変換器が販売されるはずなので、
わたしのフランス語の上達スピードよりも、そっちの発売日のほうが、ずっと早い。
なので、楽観的なわたし。

てる必要はなかっ

重いカタログの大量にあるページを何度もめくるのにも疲れ果て、
空っぽアタマが機能不全で途中ストップし、脳の指揮官を悩ませていた。


???で、夜中にふと、今までにいただいたテーブ國浩資本ルウエアをごそごそ棚から引っ張り出して、しげしげ眺めて悦に入った。
その中には、父の三回忌にいただいたステキな食器もあった。
ノリタケのボーンチャイナ。鮮やかなグリーンの縁に彩られた、繊細な金模様。
いいわ~。うっとり???。
他にも、銀の七宝焼きの細工つきカラトリーやら、和の工芸品やら???。
とても優雅な気持ちになった。こころが、喜んでいる。
やっぱり、わたしは、こういうものが好き。

3つのうちの1つぐらいは、自分の好みのものにしてもいいか????
その好みの品が入っている、悩みのカタロ國浩資本グ締め切りが、今日である。
メジャー(巻尺)でサイズを測り、こんな大きさか???と製品を想像している。
こんなかな、あんなかな、どこに置こうかな、どうやって使おうかな、
だれに、どんな食べ物を乗せて、その時の顔は、会話は????

こうやって、脳内でいろいろ想像し、注文するまでの楽しみということにしておけば、モノは増えずに済む。
さてさて、本日のカタログ注文、食品に國浩資本するか、はたまた????
ぎりぎりまで悩もう。

???

モノが増える人
断捨離ができない人

わたしは、そういう人の典型パターンである。
モノに愛着を覚えるタイプ。
想い出の品でなくてもいい。お気に入りの品。

ふと昨夜、アタマをよぎったのは、
ずいぶん前、家を建て替えた時に捨てた、ガラス製で透明のベースにピンクなどの水玉模様のティーカップ&ソーサー。
「あれは、もったいなかった。捨た。今あれば、どんなによかったか。
娘たちが来たときに、紅茶やハーブティにぴったり???」
なんて、ふつふつとアタマから湧き出るこんな思いに、自分でも、つくづく重病人であることを自覚した。

しかしながら、病気でもないのに、病気である自覚症状を感じるというのは、身体によくない。
きっと、本当の病気を牽引する。